◎親から子へ郷土の昔話 <伝説>

 【蒲郡の昔ばなし】    【身代り地蔵
 【ひじり山のお皿様】   【大塚の浦島太郎
 【五井のいぼとりの神】  【鵜殿坂

 【家康の腰掛け岩】    【宝玉石
 【鼠小僧】         【原始信仰の三遺跡

                     


【蒲郡の昔ばなし】
 蒲郡に伝えられた伝説・民話などは百話近くが知られている。その分布を見ると形原・三谷・大塚などの海岸部のものと、清田・神ノ郷などの山間部のものとに大別される。蒲郡の市街地などのように人々の流動の激しい地区には、伝えられたはなしが少ないのは一般的傾向であろう。
 はなしの多くは社寺の縁起説話に類するものであるが、「水」に関するテーマが多いことが蒲郡の特徴であろう。海岸部での「身代り地蔵」などにみられる津波・水難、山間部での「ひじり山のお皿様」などに見られるように雨ごい、各地区に散らばる蛇などが、それである。


【身代り地蔵】
 今から三百年程前の事である。大地震で太田浜の部落は海ぞこになり、大勢の人が死んだそうな。当時、この太田浜から拾石の里へお嫁にきた人が、気だてが優しく信心の深い人で、この地蔵さんにおまいりをしていたが、地震のあった夜、いつものようにお参りをしていると、地蔵さんが突然「わしは人を助けねばならない。幸い身軽な木彫りじゃ。助けるだけ助けたいがぼろぼろの体じゃ。」と言ったかと思うと、お姿が見えなくなった。
 まもなく大地震があった。幸い拾石には死人がなかったが、夜が明けると、砂浜に三人の男女が、息も絶え絶えになって打ち上げられていた。この人こそ、お嫁さんの両親とその弟で、ふしぎなことに三人がぼろ木を握っている。そのぼろ木をつなぐと、お地蔵さんになったと。お嫁さんの日頃の信心に助けられたのだ。
 誰と言うとなく、身代り地蔵さんと伝えている。


【ひじり山のお皿様】
 町の方から北西を眺めると、神ノ郷町の裏手に山が見える。この山をひじり山という。山の頂に4Mばかりの岩があって、そのまん中がくぼんでいて、どんな日照りの時でも水が溜っている。里の人たちは、干天の時は蓑笠をつけて、たいまつをかざしながらここに登って雨ごいをすると、帰りには雨が降ったという。
 ある時、いたずら小僧がおって、お皿様へ火を上げると、雨が降るなんて馬鹿げたことがあるものか、いつか試してやろうと思っていた。
 ある年、日照り続きで里人たちはお皿様に火を上げて、雨をもらおうではないかと騒ぎだした。試すのはこの時だと、いたずら小僧はこっそりお山に登って、お皿様に小便をしておいた。そんなことを知らない里人たちは、いつものように雨装束で、たいまつをかざしてお山に登りお祈りをしたが、さっぱり雨が降らず、空はからりと晴れ渡っている。おかしいぞと思いよくよくお皿様を拝んだら、まん中の所から二つに割れて、溜っているはずのお水は少しもない。これは神様がお怒りになったのだと、里人たちは震えながら山を下りた。いたずら小僧は山の麓で、血を吐いて死んでいた。



【大塚の浦島太郎】
 塩田は、拾石、鹿島、梅薮、亀塚、相楽(府相)、勝川、丸山と、何箇所もあった。藩の財政にもプラスするところが大きかったようで、信州伊奈街道を上り甲州路に送っていたと伝えられる。また、足助街道を信州に入っていく塩道もあったそうだ。

 塩に関して、大塚に残る「浦島太郎」の昔ばなし

 むかしむかし、そのむかし、そのまたむかしのおおむかし、大塚浜に太郎という男ぶりのよい漁師がいた。
 ある朝、浜へ出てみると波打ち際に大きな亀が息も絶え絶えに打ち寄せられているのを見つけた。
 これはかわいそうだと家に引き返し、自分の父親が不老長寿の霊薬だと日頃愛用としているクコの汁に、お酒を混ぜ、その亀に飲ませたところみるみる元気を取り戻し、このお礼にと太郎を背にのせ、竜宮へ案内した。
 姫の歓待はいたれりつくせりで、土産に玉手箱と巻物をもらってきた。開けてみたら真っ白なものがいっぱい詰まっている。それは塩であって、巻物にはその製法が詳しく書かれてあった。
 そのころこの地方では塩の作り方を知らず、塩水をそのまま使っていた時代の事で、たちまちこれが大評判となった。
 太郎の作った塩は、「浪の花」だとか、「太郎塩」だとか呼ばれて、遠い国々から塩買いが集まって来た。
 ことに信州の人々は、一年に何回となく塩作りの手伝いに来た。それ以来ここは塩の産地として広く一般に知られるようになった。
 それから現在大塚の海岸にある亀の形をした大きな岩は、その亀の化身だと伝えられている。
 信州と大塚はこの塩が仲立ちで民族的なつながりができ、この伝説もある意味で歴史的に生きている。


【五井のいぼとりの神】
 いぼ神さまといわれている五井の岩神は古墳(昭和32年市の史跡に指定)である。この古墳がいぼとりの神さまといわれるようになったのは、次のような話が伝えられている。
 むかし、松平の殿様のお姫様が、ひどいいぼに悩まされた。付け人の言葉に岩の上に溜った水で洗えば、いぼが落ちると聞き、さっそくおかごでここにきてお祈りし、岩の上の水をつけられた。はたせるかな、翌朝きれいにいぼが取れていたそうな。このことがあってから、いつかいぼ神さまと言われるようになり、今でも、ここには小さな神酒どっくりがたくさんそなえられている。里うたに「いぼに悩んだ姫君も、たちまち治癒して雪の肌、月に三度の礼まいり」とその霊験を伝えている。


【鵜殿坂】
 清田町の安楽寺の東にある坂で、一五六二年の春、上ノ郷落城の時、城主鵜殿長持が敵に追われて、この坂で倒れて殺されたといわれ、ここで転ぶと不治の傷を受けると言い伝えられている。


【家康の腰掛け岩】
 白竜の池から聖山に登るハイキングコースを行くと、中腹に数個の大きな岩がつくねたようにある。これが家康の腰掛け岩である。里人はつくね岩とも言っている。
伝説によると、鵜殿氏討伐の永禄5年(1562年)久松佐渡守を先陣の大将として上ノ郷城を包囲させた。この時、家康自らも名取山に陣して指揮をとった。この岩からは手に取るように上ノ郷城が望見できたので、ここへ腰掛けて指図したと伝えられている。また、この岩は古代人の山上古墳でもある。


【宝玉石】
 五井町の八幡社境内にあって、これを打つと不思議な金音が出る船形の石で、「この金音を聞いた人は金持ちになることが出来た」と言い伝えられている。


【鼠小僧】
世間を騒がせた鼠小僧の次郎吉は、西の郡小江(現神明町)で生まれた。8年間71カ所、90回武家屋敷ばかりを狙って泥棒に入った。
 町屋には、一度も入ったことはなかったので、当時の庶民階級は、鼠小僧に襲われ、びっくり狼狽している支配階級の、間抜けな顔を想像して心の中では、みんな痛快がった。38才の若さで処刑され家の裏に墓を作ったが、大正の初め現在のスポーツボックス東の委空寺に移された。


【原始信仰の三遺跡】
 大昔のいわゆる原始民族信仰と言うものは、大別して三つに分かれる。一つは性器を拝む、二つは自然及びその現象を拝む、三つは火を拝む、原子力の今日に於て尚、どんなに進んだ高等な宗教といえども、この三つの基本を出ることは出来ない。生命と科学と生活の神秘性につながるものだからである。
 さて、生む力、生産の象徴として、原始民族が拝んだ性器、即ち女陰は、農業の神様であって、祈年の祭、田の神祭など農についての行事は、常にこの神に祈る行事なのであった。
 拾石の大巖神、形原の大岩神、ひじり山のお皿様は、性器崇拝の原始信仰遺跡であるということが出来、その発祥は恐らく数千年の昔、先住民族時代にさかのぼるであろうと想像できる。


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