◎城跡をたずねて <城跡>

 【上ノ郷城】       【蒲形城】
 【五井城】        【不相城】
 【大塚城】        【丹野城】
 【竹谷城】        【形原城】

                     


【上ノ郷城 (神ノ郷町)】

 応仁の乱に始まる戦国時代、西ノ郷(現蒲郡市)は、鵜殿氏が勢力を持っていた。この城の創築や年代は明確ではないが、鵜殿長將の時には居城となっていたと思われる。この頃、下ノ郷鵜殿が分かれ、現在の市域のほとんどがその勢力下にあった。永録五年(1562年)城主長照のとき、徳川家康の攻略により落城したらしい。この後、久松氏、池田氏の居城となったらしい。


【蒲形城 (本町・上本町・中央本町)】
 鎌倉時代の初期頼朝より三河国の守護に任じられた安達藤九郎盛長の命で守護代の善耀が築城した二重の堀に囲まれた東西約200M南北約150Mの館城である。戦国時代には、三河国西郡地方(蒲郡市)を支配した豪族鵜殿氏の出城として使用された。本城は上ノ郷城で、城主は上ノ郷鵜殿氏であり蒲形城の城主は下ノ郷鵜殿と称した。 

 戦国の末期になって、徳川家康の攻略の際、上ノ郷鵜殿は今川方に属したが、下ノ郷鵜殿は戦わずして家康に降っている。城跡は戦後の蒲郡の発展に伴って破壊されたが、現在は耕地となっているが内堀の一部が残っており、その東西には、お屋敷跡があり、今なお子孫が住んでおられる。


【五井城 (五井町)】
 新宮蔵人行家が文治年間(1185年〜1189年)に築城し子孫が代々住んでいたが、鵜殿藤十郎行光が城主の時、康正2年(1456年)岩津城主松平信光の七男弥三郎元芳に攻められて落城し、その後元房の居城となり、その子外記則忠の時になって初めて五井松平というようになった。子孫が長く住んでおられたが、東京に移住したといわれている。


【不相城 (竹島町)】
 府相町の常盤館遊園地になっていたところは、鵜殿長成の居城で、永録5年(1562年)下ノ郷城落城の時降伏した。

 その後、天正年間(1572年〜1592年)に徳川氏が修造したといわれる不相城があった。


【大塚城 (大塚町上中島)】
 永享12年(1440年)岩瀬式部氏成が築いた城で、永録4年(1561年)大塚で今川氏真と岡崎勢との戦いがあり、永緑5年(1562年)落城した。今は小さな塚があり、その子孫は今もなお同地に住んでおられる。


【丹野城 (相楽町荒井)】
 相楽山荘あたりに鎌倉時代、頼朝の加護を受けて栄えた全福寺という立派な寺があったそうである。

 文明(1469年ごろ)のはじめ、備後の刺史となのる萩原左衛門芳信がこの地にきて、御堂山の北の峰に丹野城を築いたが、築城後、徐々に勢力を延ばし、全福寺を占領してしまった。萩原は寺の者に甲を着せ、これを率いて付近の村々を荒しまわったがその後、敵に攻められて文明2年(1470年)に落城したと伝えられ、その子孫は今泉と改めて、御津町赤根に永住しているとの事である。


【竹谷城 (竹谷町泉)】
 松平信光の長男守家が三州竹谷にでて、平文一六年この地に城を築いた。その後、五代家清は軍功があって、武州八幡山に一万石の城地を賜り移った。近くに竹谷松平氏の墓が残っている。


【形原城 (形原町)】
 松平与副がこの城に入り、松平形原と称した。長享年間この頃は今川氏に属していたが、後に徳川氏に従い各地に転戦し、慶長6年(1601年)形原に戻るが徳川関東移動により廃城となる。海に突出した丘を利用したもので、規模の大きい城であったと推定される。




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送