◎君も物知りに <史跡>

 【蒲郡の歴史の変遷】   【古墳
 【万葉の故地 西浦岬】  【俊成卿ゆかりの碑
 【鵜殿】            【形原町の由来

 【犬飼湊】          【塩田風景
 【蒲郡競艇】          【鉄道
 【鉢地坂トンネル】     【三河湾オレンジロ−ド

                     

【蒲郡の歴史の変遷】 文: 小林林之助
 蒲郡の歴史を簡単な流れの中に考えたならば、第一に竹谷、蒲郡の開発をされた藤原俊成を考えなくてはならないだろう。

 藤原俊成は久安元年(1145年)、三河守に補佐されているが、三河の地に着任されたかどうかについて色々といわれている。しかし、それに関わらず、竹谷、蒲郡の荘の開発は、三河の守になられる以前からか、任に着かれてからか、進められていたと思ってもよいのだろう。

 そして、久安5年4月には丹後守として任を離れておられるが、それに関係なく開発は進められたと思ってもよいように考えられる。

 竹谷、蒲形の開発に携わった人々の裔ではなかろうかと思える。鵜殿氏が次に歴史の中に顔を出してくる。鵜殿氏は、本家ともいう可き上ノ郷鵜殿、下ノ郷鵜殿、柏原鵜殿氏など一時期の蒲郡に国人領主として、君臨していたようであった。桶狭間の戦いによる今川氏の凋落と、三河松平郷に興った松平氏(徳川氏)の勃興によって徳川氏の傘下に入って戦国の世を過ごしたが、鵜殿氏の蒲郡支配の頃から、蒲郡に入って来た松平三家、竹谷松平、五井松平、形原松平と共存して、徳川家関東移封に従って関東へ移っていった。

 徳川氏治下の世になって、竹谷松平氏がその父祖の地蒲郡の領主になって入部して、現在も御子孫の方が城跡の屋敷に居られる。
 戦国時代末期の天文の頃、蒲郡へ移って来て西ノ郡の馬場に居を構えた加藤善左衛門が、社会的に経済的に蒲郡の町を整備発展させたのであった。

 加藤家の出自は、清和源氏の流をくむ信濃小笠原氏の別れで京都室町幕府に仕えた京都小笠原氏の裔で三好を名乗る家であったが、故あって加藤の姓を名乗っていたが、その後本家のみが三好に復姓している。この善左衛門家の働きによって発展した蒲郡の町、俊成によって開発されて町となっている竹谷、蒲形の地が、私達の住む蒲郡の原形であり、発展のための胚芽とも成っていると思う。


【古墳】
 今から千五、六百年前頃になると、蒲郡の海岸線も前に出て、耕地もだんだん広くなってきた。その上農業の技術も進歩して生活もすすみ、豪族の治める村々があちらこちらに出来てきた。天桂院の古墳や相楽、柏原にある古墳をご存知だろうか。このような古墳が蒲郡、塩津の山の中腹や麓にかけて多く見あたる。古墳は地方の豪族の墓であって、尾張には大きいものが多く見られるが、三河のものは小さな古墳が多い。
 蒲郡にある古墳もごく規模の小さいものである。


【万葉の故地 西浦岬】
  何処にか           訳 何所に
   船泊すらむ安礼の崎     船泊まりをするのであろうか。
    こぎたみゆきし        安礼の埼を漕ぎめぐって行った
     たな無し小舟        棚無し小舟は。

 万葉集の中のこの歌は、大室2年(702年)10月10日持統天皇が三河国へ行幸されたとき、同行の高市黒人が船上で詠んだといわれている。
「安礼の崎」について、アララギ歌人土屋文明氏は、現在の地形から西浦半島御前崎をあげている。その遠い昔、波静かな三河湾を漕ぎ巡っていたであろう小さな丸木船を、私達はありありと思い浮かべることが出来る。

 現在、この歌の碑は、万葉の小径に建てられた10基の小歌碑とともに万葉公園として整備されつつある。


【俊成卿ゆかりの碑】
 商工会議所の北、国道23号線ぞいに藤原俊成卿ゆかりの碑がある。

 「三河冊補松」に

 《 大島や小島がさきの仏島 すずめの森に恋の松原 》

 という歌があるが、これは国司として俊成卿がこの地を開いたと伝え、この波よけの松原や、納涼の場所をうたった歌で、すずめの森は「涼みの森」、恋の松原は「小江の松原」をもじったもののようだ。




【鵜殿】
 鵜殿氏は、熊野から移住してきた豪族で、鎌倉時代の頃から、この地方を支配していたといわれる。上ノ郷・下ノ郷・柏原・府相などに城を構え、戦国時代には今川氏の被官となり、勢力を三河一円に及ぼしていた。室町時代の終わりごろ、進出してきた松平一族とは、当初友好関係にあったが、松平氏が今川氏と敵対関係になると、鵜殿と松平一族も争うようになった。永禄5年(1562年)徳川家康は竹谷松平氏を助け、上ノ郷城を攻めた。この戦いで上ノ郷鵜殿氏は倒れ、この地方は家康の領地となった。「忍者による城攻め」は、この時がはじめてとして軍記に名高い。


【形原町の由来】
 明治9年、戸金と平地とが合併して金平になり、明治22年に一色と形原とが合併して形原町が出来た。
形原をカタハラと発音するようになったのは、いつ頃かわからぬが、昭和8年名鉄電車が出来たとき、駅名をカタハラと呼んだ。昔は加多乃波良という文字が使ってあるのでカタハラはノを抜いたことになる。

 さて、このカタノハラの地名は、この地方では一番古くから、ものの本に出ている名である。

 カタハラは本によれば、片原の字を使ったものであって、地形によってつけた名で、一方は山、一方はガケ、浅い扇状地の意味のようでもある。が、ハラの音に原の字を当てたのが間違いのもとで、ハラの音で表現された場所は、崖にあたる場合が多いので土地の一方つまり片々が原だと解釈するのは誤りで、はらは崖際のことだと考えねばならぬ。そうすると、カタが、何にあたるかが問題になってくる。安田博士の説に従えば、カタは輝く星である=日本人の起源参照=そうするとカタノハラは星の輝く崖際(あるいは丘)ということになるわけで、先住民族の付けた名で、今日に伝えられていることになる。

 悠遠の昔から伝えられた「加多乃波良」が、「形原」の漢字に誤られて原形を失ったことは惜しいことである。この外に形原町にある地名で、地形から出来たと思われる古い名には次のようなものがある。
 根崎、狭間、大沢、八ケ峯、編笠、平谷、大迫、長根

何か目標になる植物、建物など施設による名は次のようなのがある。
 市場、上松、石橋、御屋敷、森御獄、稲荷、井坑、堤、橋、坊、寺中、大門

昔の制度の名残りによる地名は次のようである。
 欠、名田、大坪、五反田


【犬飼湊】
 犬飼湊は、かつて三河五湊の一つに数えられていたほどの大きな湊であった。ここは現在の厚生館病院付近から、競艇場にかけての広い地域に渡っていたが、重なる地震で土地が隆起し、湊としての機能が失われた。また、西の郡の三好氏の隆盛に伴い商業の中心が西の郡に移り、しだいに犬飼湊は寂れていった。
 戦国時代には、今川の人質となってこの湊から竹千代(徳川家康 当時6才)が船出したり、大阪の陣に徳川秀忠が出港したりして、歴史に名高い湊であった。




【塩田風景】
 蒲郡地方での製塩の歴史は古い。奈良から平安にかけての時代の製塩土器が不相城山東から出土しているし、古墳時代・弥生時代の蒲郡の経済は塩が中心となっていたと指摘もされている。この製塩が本格的に始められたのは、江戸時代からであり、大塚村では塩年貢として47石2斗が金納されていたという。

 江戸時代から近代にかけて塩田があった村は、大塚・府相・竹谷・拾石・鹿島・形原・西浦の七ケ所であり、明治10年には合計50町4反であった。竹谷村・拾石村では「全村農業を以て専業とし、その内食塩製造を余業とするもののほとんど十中六七にして婦女といえども食塩製造業に従事する」ほど盛んであった。しかし、その後電気製塩が本格化しこの地方の塩田は専売局の不良塩田整備や織布工賃の上昇、外国からの輸入で不振となり、昭和28年の13号台風の塩田壊滅で姿を消してしまった。


【蒲郡競艇】
 競艇場設置の動きは、蒲郡町時代の昭和27年、舞田寿三郎町長の当時、岡崎市からの申し入れで始まっている。競馬・競輪などの公営ギャンブルは、戦災を受けた都市の復興事業として全国各地に開設されたが、岡崎市でも、菅生川を利用して競艇を開きたいという考えがあった。しかし、菅生川では面積が狭く、実現不可能と解ったので、隣接の蒲郡町の海岸を利用して、共同で開催したいとの申し入れであった。

 競艇場開設問題は、13号台風、町村合併などで一時期中断したが、第一回市長選の頃から、一つの論争点として再燃した。即ち、財政上の理由を強調する賛成派と、道徳・風紀上の理由を強調する反対派に分かれて大論争を展開したのである。13号台風によって壊滅的な打撃を受けた塩津の塩田は、再開の目途が立たず、太田新田一帯を競艇場に転用する方向で話が進んでいった。市側も論議を重ねた末、運営の一切を愛知競艇株式会社に任せ、歩合金として売上高の1.5パーセントを市に繰り入れるという形で、開設の方向に傾いていった。そして、昭和30年3月18日、全国で23番目の競艇場として認可された。

 さらに、昭和33年10月、蒲郡市直営となり、岡崎市へは総売上金の1パーセントを交付することとし、全ての運営を蒲郡市が担当することとなった。

 これらの収益金は一般会計に繰り入れられ、市庁舎・市民病院・ごみ処理場・火葬場・上下水道・区画整理などの都市施設が着々と整備されていった。平成5年には収益金が60億円に達し、間接的な市民への恩恵は大である。
尚、年間開催日数は180日と決められている。


【鉄道】
「東海道案決定の経緯」

 明治21年11月、鉄道起業の廟議が決せられ、まず東京・横浜間の工事を起こすことが命令され、明治5年新橋・横浜間を陸蒸気が53分で走った。

 当時、東京・大阪を結ぶ幹線を東海道とするか中山道のどちらにするかについて方針はなかなか決定を見なかったが、「将来戦争に備えて街道筋よりも山の中の方がよい」という軍部を代表して山形有朋が建議し、中山道鉄道敷設と内定し、地形の測量及び線路の選定について政府より工部省に命令された。

 こうした決定を聞いた時の名古屋区長吉田禄在氏は「鉄道が中津川から大垣へ抜けたのでは名古屋は置き去りにされる」と敢然と反対した。そして東海道案を有利とする資料を添えて、公務省鉄道局長井上勝氏を動かした。その結果、井上は局員を派遣して東海道を調査させ、その優位性を認め山形有朋に委曲を尽くして説明し了承を得て内閣総理大臣に上申した。上申は明治19年7月13日閣議決定され、上奏裁可を経て同月19日閣令第24号として幹線変更が公布された。

「蒲郡駅」
 明治21年9月1日東海道線大府・浜松間の開通と同時に営業を開始した。開設当時の駅舎は、現在の蒲郡街道踏切付近にあったものと思われる。

 東海道本線が敷かれる時、旧東海道に沿って御油赤坂から岡崎へ抜けるコースが計画されると、これらの旧宿場の人々は激しく反対した。旧宿場には、伝馬の制度があって荷物の運送に従事していたからであった。この様子を聞いた永島藤六郎氏は豊橋におかれた鉄道敷設工事局に、坂も少なく距離も短いと蒲郡地方へ通すよう運動し達成された。

「三河三谷駅」
 昭和4年7月3日、御油駅(現愛知御津駅)と蒲郡駅の間に三河三谷駅が開業した。三谷とはこの地が、三つの谷の集まりから三谷地区はできたと言われている。

 JRの他社に三谷(みたに)駅があることから、三谷地区の住民は三谷の名を誇りに熱望しこの地の三河と三谷とを一緒にして、地元に愛着をこめ「三河三谷駅」と愛称した。

「三河大塚駅」
 昭和28年7月16日、大塚海水浴場の期間だけの臨時海水浴季節駅として開業した。

 昭和33年に愛知県青少年の家「相楽山荘」が建設され、34年には大塚ブームといわれたほど海水浴場が賑わいをみせたこともあって、昭和35年3月1日、常置駅に昇格、その後駅舎の新装など面目を一新し、現在の三河大塚駅となった。大塚学区民の熱意と努力、先人の苦労の賜物として三河大塚駅の誕生となった。

「三河塩津駅」
 昭和62年4月1日、国鉄からJR東海に民営化された2年後に開設された。


【鉢地坂トンネル】
 蒲郡には坂と呼ばれるのが、国坂、桑谷坂、坂野坂、星越坂、そして鉢地坂の5つある。

 鉢地坂は、いま、新箱根として、ドライブウェーが岡崎に抜けているが、江戸時代においても、東海道へ抜ける重要な道であった。山が険しく、難儀な道であったので、昔から狸や狐に化かされたという言い伝えが多い。

 明治の蒲郡町にとって、東西の交通は東海道線によって比較的便利であったが、北との交流は五井の山一つを越えねば不可能であった。明治36年尾崎市右衛門氏は、トンネルを作るため知事に対する測量誓願書の提出や促進運動を展開した。しかし、事が大きすぎて人々の理解をなかなか得られなかった。

 大正6年、傍観者の目からみれば14年間の空しい努力の繰り返しの中で市右衛門氏は、病気のためこの世を去った。
以後16年、市右衛門氏の信念は、後継者の人々の心の中に生き続け、昭和8年11月20日トンネルは完成した。


【三河湾オレンジロ−ド】(昭和61年11月21日開通)
 蒲郡市及びその周辺地区は、臨海部における各種産業の進展が著しいことや、三河湾国定公園内に位置し、自然環境に恵まれ、観光レジャ−の場として親しまれていることもあって、近年の自動車交通需要は増加の一途をたどり、当地域に通ずる国道23号や国道248号等の幹線道路の交通量は限界に達していた。

 このため、蒲郡市、音羽町をはじめ地域から強い要望が出され、当地域に於ける道路計画の将来を展望し、東名高速道路の音羽町地内にインタ−チェンジを新設し、蒲郡市に直結する道路の建設を計画したものであった。

 東名高速道路のインタ−チェンジの新設については、昭和53年度から日本道路公団が建設を進めてきた。一方、県道長沢蒲郡線(オレンジロ−ド)については、愛知県が昭和五三年度から本格的に国庫補助事業及び県単独事業により建設を進めるとともに、早期共用を図るため、全長6.4qの内3.0qの区間を民間資金の活用による有料道路事業として、愛知県道路公社が昭和五四年度から建設を進めてきた。
この道路の開通により、東名高速道路及び国道1号線と当地域が直結され、国道23号線や国道248号線等の幹線道路の交通渋滞解消はもとより、産業・経済の発展等、当地域の活性化に大きく貢献するものと期待された。

 昭和47年8月に蒲郡市と音羽町で「長沢蒲郡線整備促進期成同盟会」を設立。
昭和49年5月に「東名インターの設置ならびに県道長沢蒲郡線設備促進期成同盟会」に名称変更し、さらに昭和51年5月には組織拡大を図り、5市9町からなる同盟会となった。また市議会に「東名インター長沢蒲郡線対策委員会」、商工会議所に「東名インターチェンジ建設促進協議会」が相次ぎ設立された。

 県道蒲郡長沢線の開通を祝い、長沢蒲郡線の愛称を(社)蒲郡青年会議所が、募集し、新聞・ラジオ等で大きくとりあげられ、予想を上回る1,575通もの応募を得、審議の結果、『三河湾オレンジロード』と決定した。

 平成7年6月時点に於ける一日の交通量は、約4,000台を数える。


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