知ってるつもり <観光>

 【常磐館】        【蒲郡ホテル
 【三谷の弘法さん】   【乃木山
 【三谷公園計画】     【フラワーパーク
 【あじさいの里】     【形原温泉と菩提寺

 【蒲郡竹島水族館】   【三河湾スカイライン】 
 【国定公園】        【俊成祭
 【三谷祭(海中渡御)】  【三谷祭(黒ごま)
 【ちゃらぼこ

                     



【常磐館】
   

 蒲郡の観光事業の草分けは、大正元年滝信四郎氏により開業された常磐館である。常磐館という名称については、滝氏が買収した土地の地主の中に額田郡常磐村の近藤東右衛門という人がいて、その地主の居住地名から「常磐館」に命名されたといわれている。

 常磐館東側の海を囲い、海水の池と、その真ん中に八角の楼閣を造り、お客の涼台にあるいは観月の場とした。周囲の堤は道路となっていて、竹島と東府相海水浴場とを結んでいた。13号台風でその姿を消した。

 常磐館は、多くの文学作品に紹介されている。大正11年、菊池寛の小説「火華」に初めて取り上げられた後、多くの文人たちが蒲郡の海や竹島とともに常磐館の素朴な美しさを作品の中に描写している。

 常磐館は、昭和55年における蒲郡市の買収後、老朽化による危険防止のため、昭和57年に本館をはじめ12棟の建物が取り壊され、現在、蒲郡グリーンパークとして市民に親しまれている。

 
注: 昭和59年蒲郡グリーンパークが整備された後、平成9年に海辺の文学記念館が建設されました。当館において、(◎蒲郡を愛した文人たち)に記載されている著名人の作品に出会えます。平成12年には蒲郡グリーンパークから常磐苑と名前を変えています。



【蒲郡ホテル】
 昭和7年に着工し、9年の春竣工した蒲郡ホテル(現蒲郡プリンスホテル)は蒲郡町が公共団体として、30万円の低利資金を借入れ、これに滝氏の自己資金10万円を加え、40万円で出来た。地上三階建て、地下一階全二九室(休憩室食堂、ホール、バーは除く)あり、日本で初めての国際観光ホテルとして、輝かしい発足をした。続いてビワコホテル、奈良ホテルなど、日本情緒豊かなホテルが出来たが、とにかく、出来た当時は、東海随一のホテルと言われたものである。

 昭和天皇陛下はじめいわゆる上流階級の紳士で「蒲郡ホテル」を知らない方は一人もいないのが自慢であり、天皇陛下もおかわりがほしいと言われた程、海老フライは名物的な料理。味よりも郷土色を味わいたいお客様は、あさりカレーをどうぞというわけで、観光のお客様は絶えなかった。 昭和20年アメリカ軍が蒲郡へきて、蒲郡ホテルや竹島、三河大島を休養地とし日本人の立ち入りが禁止されたが、サンフランシスコ平和条約が発効し、昭和27年5月に米軍の接収は終わりを告げた。

 ホテルの宿泊客は昭和40年代以降8,000人から10,000人前後で、ほぼ横ばいであったが、50年代に入ると利用者が年々増加傾向を示してきた。しかし、蒲郡の宿泊施設の先達として大正・昭和時代に渡って蒲郡の観光業界をリードしてきた常磐館・蒲郡ホテルも両館のオーナーの営業不振により、昭和55年の6月閉館となった。蒲郡市は昭和55年3月、株式会社蒲郡ホテルから所有の全ての株式を15億円で買収し、隣接地も4億5千万円で買収した。「当地域が民間業者の手によって乱開発をされては」といった市民の声を受けて、市がその期待に応えたものであった。 その後、旧蒲郡ホテルが蒲郡プリンスホテルに生まれ変り、7年ぶりに営業を再開し現在に至っている。


【三谷の弘法さん】
 1,300年程前、弘法大師(空海)が巡歴の途中、美養(現三谷)の山頂に立ち海の綺麗な三河湾、眺望絶景の自然美に、「これは素晴らしい」と申され、何か記念に残したいと、南山の麓で「エイヤー」と一声、杖を突くと、温泉(現三谷温泉)が湧き出たという。
 昭和12年、南山に東洋一を誇る信仰と観光のシンボルとして、子安弘法太師像を滝信四郎氏が寄進して建てたもので、設計施工は鬼頭氏がたずさわった。総背丈六二尺(18.78M)は、空海の世寿が62才だったからである。顔の長さ、杖の高さ、台座のとり方、足のふんばり方、わらじの大きさ、およそ大きさのあるものは、全部空海の生涯に関係のある数字であると言われている。
 またこの弘法さんは、本堂が仏体であり、体内は空洞で、頭部までが八階になっていて、頂上に上がると、左の耳の穴からは豊橋方面、右の鼻の穴からは伊良湖岬や知多の風景が絵のように開けている。



【乃木山】
 元は山のところどころに弘法さんの石の像が安置され、通称弘法山と呼ばれていたが、乃木大将石像が建設され、弘法さんが他に移されてからは乃木山といわれるようになった。石像は、大正7年三河大島で起工され、その後、大正9年に乃木山に移されたものである。


【三谷公園計画】
 大正9年(1920年)大島にあった乃木大将像が乃木山に移築され、乃木山遊園地の基礎となった。大正14年「美養公園造成計画」が打ち出された。園内に梅林・牡丹園・大弓場・角力場・広場・テニスコート等を配置し、和風洋風を加味したスポーツ型の斬新な遊園地をめざした。

 昭和29年三谷温泉が発見され、開発や旅館の設置などに取り組んだ。温泉は分析の結果、単純炭酸鉄泉で薬効が高いと言われる。蒲郡市が乃木山弘法山麓を開発地帯として、旅館・飲食店・売店等の誘致をした。

 昭和33年三河湾一帯が三河湾国定公園の指定を受け、その年、乃木山と弘法山の間400Mを結ぶ三谷ロープウェーが完成した。作る前から、経営が成り立つ、立たないという論争があったが、短期間で廃業となった。昭和34年に乃木山に約5千個の恒星を映し出すプラネタリウムを作ったが、これも廃業。34年に弘法山遊園地完成。大島に放し飼いしていた鹿が海を泳いで逃げ出すこともあって、その鹿を弘法山に移してバンビセンターを建設し遊具などもおいた。


【フラワーパーク】
 1965年に平野万吉氏が設立して、1985年にファンタジーワールドと名前を変える。館内には世界110カ国からの5,000万個の貝がおかれ、海の中の神秘的で幻想的な夢の世界が創られている。中には、日本で公開された貝では最大のインドネシア産の大ジャコ貝(重さ258キロ、長さ1.38M)や、フランシスコザビエルの集めた5,000余種、30,000点の貝を展示している。


【あじさいの里】
 形原温泉では、毎年六月になると、3万4千株のあじさいが青や白、紫色の花々を梅雨の中で輝かせている。同温泉のあじさいは、昭和62年に県立安城農林高校生の協力で地元の人たちが植えた。近くの三ケ根山スカイライン沿道も含めると、計5万株にもなり、今では県外にも知られた名所となっている。この時期はあじさいを目当てに温泉客も増え、あじさい祭期間中は午後10時までライトアップもしており、夜の風情も楽しめる。
 次のような伝説がある。

 「花盗人(はなぬすびと)」
 その昔、一人の娘が人目をはばかるように両手いっぱいにあじさいの花を抱え夜道を歩いていたそうな。家に戻った娘は、ほっとため息をつき、「さあ、これで今年も災難に遭わず、お金にも不自由せずに住むことだわ」とつぶやいて年に一度の盗みを仏様に謝ったそうな。これは形原の街に古くから伝わる民間信仰で、人に見つからず他人の家のあじさいを取ってきて玄関に吊るすとお金が貯まり、厄除けになるというものである。そして、あまりお互いに他人のあじさいを盗みあったために見かねた菩提寺の住職が「それなら寺にあじさいを植えておいてあげよう」と境内に植えておいたそうである。今も形原町の一部にこの風習が残っている。


【形原温泉と菩提寺】
形原温泉は約500年程前、菩提寺の住職が発見したと言われ、今も温泉の守護寺として信仰と尊敬を集めている。
 本尊は薬師如来で馬頭観音が秘仏として安置され、共に県指定の文化財となっている。
 境内には、1万5千株もあじさいがあり、咲き競う季節は素晴らしいものである。


【蒲郡竹島水族館】
 蒲郡の町に、社会福祉施設の芽が吹いて出たと言えば母子寮が初めであろう。もし、文化的な施設の初めといわれたら恐らく水族館をあげねば成るまい。「海のながめは蒲郡」と鉄道唱歌に歌われた『天下の蒲郡』チャチなものを作ってはかえって天下の蒲郡にふさわしくないからと水族館計画が進んだそうだ。昭和37年にその施設はとりあえず竹島園地内に作り、将来適地があり次第そこへ移転する方針で水槽も移転できるものにし、三河湾とその沿海部の魚類を中心にして、2百余種類の魚類を入れ、建設費は当時としては大金の650万円にのぼると言われる。
 その施設も近年老朽化が進み、やっと蒲郡東港埋立地への移転計画が進んでいる。





【三河湾スカイライン】
 昭和20、30年代の蒲郡の観光開発は、竹島・大島、さらに西浦・形原・三谷温泉と常に海岸線開発に重点が置かれていた。しかし、40年代になると愛知県の観光開発計画にもかかわって山への観光開発に着手した。その第一が、昭和43年開通の三ケ根山スカイラインであり、第二が三河湾スカイラインである。

 三河湾スカイラインは、県の開発公社が山間部の観光開発をねらって建設した総延長17.71キロ、二車線の有料道路である。このスカイラインは、山ケ根山スカイライン・鳳来寺山パークウェー・本宮山スカイライン・茶臼山高原道路と共に、三河パークライン計画の一ルートで、将来それぞれ接続され、総延長130キロの東三河の山と海を結ぶ観光ルートの一部として計画されたものであった。5年の歳月と22億円をかけ、昭和48年11月9日に完工式を迎えた。途中の遠望峰山園地には人口スキー場、フィールドアスレチック、電動バッテリーカー等の遊具施設がある。三河湾を一望できるとあって毎年初日の出を望む人々で賑わう。


【国定公園】
昭和30年頃から三谷・形原・西浦の三温泉が開発されて発展したこともあって、国定公園の指定を求める声が高まってきた。蒲郡商工会議所を中心に正式に申請したのは昭和30年春であった。国定公園に指定されると、観光地としての国立公園並の評価を受けて、宣伝効果が引き上げられる。温泉や海水浴などで高まってきた観光の波を、更に高めようとしたのである。

 2年近くの運動の結果、昭和33年4月三河湾一帯が三河湾国定公園に指定された。竹島を描いた10円切手がある。




【俊成祭】
 平安時代の歌人として有名な藤原俊成は、32才から4年間三河国司を務め、68才の時には、竹島へ弁財天を勧請している。新しい竹島橋(長さ387M)が1985年完成したのを記念して、蒲郡俊成祭が始まった。
 平安時代の衣装をまとった平安絵巻時代行列をメインに、平安の里・市、平安の宴、歌会等が情緒たっぶりに繰り広げられ、蒲郡誕生当時の趣が伝えられている。

 
注:時代行列は平成12年以後、行われていません。今では、手筒花火をメーンとした蒲郡春まつりとして市民に親しまれています。





【三谷祭(海中渡御)】
 伝説によると、元禄年間、時の庄屋佐左衛門の夢枕によって海中渡御等の神幸祭形式が創始されたとあるが定かではない。

 全村あげての組織だった祭礼は、庄屋佐左衛門の全盛であった正徳2年(1712年)に記録されており、それまでの社家中心の祭事から氏子中心の祭事へと転換されていったものと思われる。その後、村の発展と共に盛大になり各区絢爛豪華を競い、京都祇園祭の山鉾を模したと思われる雄大な山車を建造して、これを海中に曳き入れ、各区賑やかな余興を奉納した。

 昭和34年伊勢湾台風により海中渡御は中止され、翌35年には海岸線の埋め立て工事が始まり、辛うじて残された水面で実施されたが、とうとうこれが最後となり海と砂浜を失った三谷祭の最大の行事は、3百年余の歴史に終止符を打って永久に丘に上がった。

 
注:1960年を最後に一次途絶えた海中渡御は、海を愛する住民の熱意で1996年に復活しました。



【三谷祭(黒ごま)】
 黒ごまの起源は何時の頃からか詳らかでないが、昔から三谷祭に付随する珍しい行事として世に知られている。新郎新婦の前途を祝福する厳粛な中にユーモラスなところのある行事である。

 昔は御輿渡御を翌日にひかえた旧暦9月8日の夜、明日の天気を心配している村人に若衆が寝ずの番をして「明日は晴天、黒ごま煎れたか、弁当の支度は出来たか」とお祭の開催と、ごちそう(ご飯に黒ごまをかける等)の準備をするようにふれ歩いたものだった。
 現今では、笛太鼓の鳴り物入りで「何でも今年は豊年だ、○○さんがお嫁さんをおもらいたとせ、かかあ(妻)を出しやよし、出さなきゃその場がおさまらぬ」とはやしながら新婚家庭を訪問する神官姿の若衆が、お祓いの上ユーモラスな祝辞を奏上するなど、祭の夜の一時をよりいっそう和やかにさせるも、エロチックにして、なお今に愛される所以ではないだろうか。


【ちゃらぼこ】
 ちゃらぼこはやしは徳川時代の中頃、紀州の熊野から伝わったと言われている。元来、この地方と伊勢・熊野方面との海上交通は至って便利であったから、熊野勢力の統治進出に伴って伝来したものであろう。

 ちゃらぼこ太鼓は、大胴とよばれる大太鼓一と、小太鼓二と笛一で構成されているが、その音が「チャラボコ」と聞こえるので、この名が生まれたという。大胴を打つ人は、むち(ばち)の中央を軽く持って、その両端を巧みに使い分けて打ち鳴らす。響きそのものもさることながら、打つ人の躍動を感じさせるところに妙味がある。

 祭礼の時、四本柱の山車に太鼓を据え、チャラボコと打ち鳴らしながら練り歩き、祭を触れ回ってその興味を引き立てる。それから氏神へ繰り込んで、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛・海上安全を祈って、社前で奉納する。現在では形原の天満神社の祭礼にわずかに残るだけとなった。ちゃらぼこ囃子を後世に残す為に保存会が作られている。

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