◎街の自慢 <産業>
【三河織物の元祖】 【ガチャ万】
【麻網】 【再生ロープ】
【魚市場】 【漁業の変遷】
【三河織物の元祖】
明治の初めごろ、この地方の山間地には綿がつくられ、夜なべには糸繰り車でピイピイと糸が紡がれ、それを手織機で、チャンコ、チャンコと織ったが、これらは農閑期の女の人の内職であった。
ところが、明治9年、武内せき女が中島郡祖父江村から、機へり台一台と四人の工女を連れてきて、三谷村松葉で機織業を始めた。四人で一日に、七、八反のしま物が織れ、一反5、60銭で飛ぶように売れていったので、その噂が広がって、技術の伝講を受けるものが多かった。
そのころの地謡に、
「二反三反織るような織り子、頼みたいぞえ、二、三人」
と謡われているのをみても、その頃としては率のよい仕事であったようだ。
【ガチャ万】
戦前、三河木綿の名で全国に知られていた当地方の織布業は、終戦直後は原料不足で逼塞状態になり、わずかな織機が配給原料を使って動いているのみであった。しかし、戦後一気に到来した物不足は、衣料の中心としての木綿の需要を急増させ、昭和22年から23年代には、作ればいくらでも売れる現象が起きた。織機が「ガチャン」とひと動きすれば、万という金が儲かると言われ、「ガチャ万時代」と呼ばれる異常景気となった。工場の入り口には、胴巻きに現金をいっぱい詰め込んだ買い手が待っていて、出来た製品をひったくるようにして闇で買っていったと言われる。
【麻網】
形原町の麻網業の発展したもとは、漁師が自分の家で使用する網を、自家製作に頼っていたことから始まったといわれる。
自給自足から、これを工業化して麻網業を始めたのは小島喜八氏である。
喜八氏は、手ない糸の脆さを嘆く漁師を見て、麻糸製造機の考案に努め、明治七年分銅時計の原理を応用した「後去り歯車式紡機」をつくりだした。
その後、多くの人々の血のにじむ努力が積み重ねられて、形原は、一寒村から全国でも主位を占める麻網業地となっている。
【再生ロープ】
麻網業は、戦時中でさえ工場150、従業員2,000名を擁し、魚網・ロープの生産は3,750トンを越えていた。敗戦によって原料であるマニラ麻の輸入が途絶え、やがてストックの一万俵の原料が底をつき、形原町の中小工場は休業・廃業へと追い込まれた。この難局の打開のために考え出されたのが、古ロープの利用であった。外国航路船舶用及び、底引きトロール漁船の古ロープに、少し手を加え、あるものは再生ロープと銘打たれ、あるものは新品として販売され莫大な利益を上げた。
【魚市場】
[三谷の魚市場]
三谷漁港の歴史は古く、元禄14年(1701年)の文書に「三谷湊、舟掛吉し田原迄四里、平坂迄七里」と記載されており、領主松平氏の時にすでに舟着場として諸大名の参勤交代に海上輸送をつとめ栄えてきた。魚市場も問屋と言って、そのころから開かれていた。明治32年三谷町中浜部落が個人経営の魚問屋を譲り受けて「三谷魚鳥株式会社」をつくった。
その後共同組織になり、昭和24年、水産業協同組合法が出来てから「三谷漁業協同組合」として出発した。
[形原の魚市場]
形原の魚市場はかなり古くからあったようだが、明治32年8月に丸二形原海産合資会社が設立され、同社は大正7年5月に株式会社に改組した。
形原の取引高は、明治末期から大正中期にかけて大きく伸び、昭和6年には、569,175円に達した。
昭和11年に印刷された形原港修築計画調査によると、会社は売上げ価格の11パーセントを手数料として徴収し、そのうち7パーセントを仲買人(85人)に割り戻していた。
[西浦の魚市場]
西浦の魚市場の設立時期は不明の点が多いが、各種資料を照合すると明治16年に市場が開発され、それが漁業組合結成の2年後にあたる38年5月に漁業組合共同販売所となり、更に昭和七年七月に西浦漁業組合市場となったようである。
明治末期から大正期にかけての取引高は大きく伸びた。
昭和12年の記録によると、西浦港所属漁船の西浦への水揚げは、昭和七年の88,050貫から11年の48,961貫に減少したが、金額はほぼ10万円前後で大きな変化は認められなかった。セリは一日1、2回行われ、売上げ価格の1パーセントを手数料として集め、その内6パーセントを25名の仲買人に割り戻した。出荷先は、東京50パーセント、豊橋・名古屋各8パーセント、岡崎6パーセントが主要なもので、浜松・豊橋・岡崎・名古屋などの近距離地域への出荷には自動車が使われた。又、東京・横浜・大阪等の大都市には赤貝、カニ、エビが、地元はじめ近隣地域にはヒラメ・アジ・タイが出荷された。
【漁業の変遷】
戦前から戦後の一時期にかけて、他府県沿岸での漁業は激しく禁止されていた。このため、他府県沿岸での漁業は密漁となった。密漁は昭和17年頃から終戦直前までがピークであった。当時の密漁は、乗組員六人で二昼夜の操業をし、底引き網漁法でカレイ、ヒラメ、車エビ、カニ等をとった。一航海で現在の金額にしておおよそ百万円の収益があった。
その後、漁業資源は、戦後の急激な乱獲によって激減した。そのため、形原では、沖合い遠洋漁業へ活路を見いだす動きが現れ、当時としては県下最大の遠洋マグロ船が建造された。この大型船は、650馬力で、冷凍設備・無線装置などを完備した324トン余というものであった。この大型マグロ船は、第一宝洋丸と命名され、29年3月には、南太平洋方面へ処女航海に出航した。しかし、折り悪く米国のビキニ環礁での水爆実験の死の灰を第五福竜丸があびるという事件があり、魚価が暴落して、最初の出漁でつまずくという不運に見まわれた。関係者は、5年後には、宝洋丸を手放すことになってしまった。
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