◎我らのふるさと蒲郡

 【蒲郡のあらまし】    【「がまごおり」は「かまこおり」
 【海のながめは蒲郡】  【市制への動き
 【方言


                     


【蒲郡のあらまし】
●地 勢   本州のほぼ中央部、太平洋岸の愛知県東南部に位置している。南は渥美・知多の両半島に抱かれた三河湾に面し、残る三方は赤石山脈の山麓に囲まれた馬蹄形の盆地で、海岸線に沿って、市街地が形成されている。市の境界を成す山々は約400Mの高さが連なり、乃木山から塩津・形原・西浦にかけて片状閃雲花崗岩があらわれて、なだらかな赤肌がちの老年的地形を成している。
●気 候   蒲郡は、雪の降ることは少なく、気温の年平均が15度で愛知県でも温暖な地方である。
 また、三方が山に囲まれているので、降水量は大変少なく集水面積もせまい。年降水量の蒲郡の平均は1,700ミリである。
●蒲郡について書かれた最初の文献  『日本紀略』 
●市制施行    昭和29年4月1日
●市役所の位置  東経137度13分20秒  北緯34度49分23秒
●海岸線延長距離 28,598M
●総面積     55.15平方キロ (平成5年10月1日現在)
●人 口     84,106人 (平成7年 6月1日現在)

 注: ●総面積        56.81平方キロ (平成15年11月1日現在)
    ●人 口     82,002人        (平成15年11月1日現在)


●市 章     市制施行を記念して一般から公募し、昭和30年7月20日に制定された。丸に一の字をあしらったこの市章は、徳川家の親系、蒲形松平家の家紋を図案化したものである。




●市の花  つつじ (昭和47年11月3日制定)
きびしい環境にもめげず、春3月から7月にかけて綺麗な花をつけます。青年都市としてたくましさの中に人情と努力の花が開きつつある本市を表現するのにふさわしい花である。



●市の木  クスの木 (昭和47年11月3日制定)
常緑樹で、葉には光沢と芳香があり大木になります。成長力にとむ植物生態学では、21世紀に栄える木といわれ、伸びゆく蒲郡市を象徴するのにふさわしい樹木である。

※ 日本紀略 : 神代から後一条天皇までの重要な史実を、漢文で編年体に略記した史書。神代は日本書紀神代巻をそのまま採り、神武天皇より光孝天皇までは六国史を抄略し、宇多天皇以下は日記記録による。三十四巻。撰者未詳。



【「がまごおり」は「かまこおり」】
 この蒲郡を「かまこおり」と呼ぶか「がまごおり」と呼ぶか、頭文字のKとGで町中がもめ抜いた時代があった。
 本来蒲郡は、蒲形(かまがた)と西の郡(にしのこおり)とが、明治9年1月7日合併したとき、竹本郡長が、蒲形の「かま」と、西の郡の「こおり」とを合わせてつくった名である。
 従って、正確には「かまこおり」と濁らないはずであるが、国鉄『蒲郡駅』が出来た時(明治21年)、切符をつくるについて、濁るか濁らないかの照会に対し、KをGと誤って答申したためその時から『濁る』こととなった。そのために、いつの間にかプラットホームに建っている駅名標も乗車券も「がまごおり」となってしまったので問題になった訳である。
 当時保勝会(現在の観光協会の前身)では、これにどえらい力こぶを入れ、再々名古屋鉄道局に陳情に出かけ、「かま」だとがんばったものだ。
 だが当局側はこれを変更することはなかなか面倒なことなので、オイソレとは回答がなく、当時の駅長影島氏は両者の間にはさまって困っておられたようだった。局側の意見は「蒲の冠者」ゆかりの名であると古書を引例して反ばくし、この問題もついにウヤムヤになってしまった。
これも蒲郡歴史の小さな一コマである。

※ 蒲の冠者: 源範頼(のりより)の異名。遠江国浜名郡蒲村、即ち古の伊勢の神領、蒲生御厨(がもうのみくりや)で生まれたからという。

※ 源範頼 : 平安末期の武将義朝の第六子。世に蒲冠者、蒲殿と称す。兄頼朝の挙兵を助け、義経と協力して義仲を討ち、平家を一谷・壇ノ浦に破った。後、頼朝の猜疑を蒙って追われ、伊豆修善寺で殺された。
『吾妻鏡』によると、寿永3年6月20日の条に「源範頼が三河主に補任された」とある。


【海のながめは蒲郡】
 鉄道唱歌に「海のながめは蒲郡」と歌われていると聞いたり読んだりしたことがあると思う。さて、その内容を知っている人はどれほどいるだろうか。ここで簡単に紹介したい。
鉄道唱歌は全五集。第一集は東海道、第二集は山陽・九州、第三集東北地方、第四集北陸地方、第五集畿内・隣邦となっており、明治33年に地理教育書として発行された。


 曲は二種類 東京音楽学校講師 上眞行 作曲
       大阪師範学校教諭 多梅稚 作曲
       大和田建樹作歌

 蒲郡は第一集東海道(全六六番)の30番に歌われている。

 29  右は入り海しづかにて        鷲津
      空には富士の雪しろし
     左は遠州洋ちかく           二川
      山なす波ぞ砕けちる

 30  豊橋おりて乗る汽車は        豊橋
     これぞ豊川稲荷道          御油
     東海道にてすぐれたる        蒲郡
      海のながめは蒲郡

 31  見よや徳川家康の          岡崎
      おこりし土地の岡崎        安城
     矢作の橋に残れるは        刈谷
      藤吉郎のものがたり        大府・大高


【市制への動き】
 昭和28年10月21日、蒲郡町議会は、塩津町、形原町、西浦町へ市制執行への正式申し入れを決議した。続いて11月には大塚村にも参加の申し入れを行った。

 11月2日、塩津村は全面的に賛成、市制施行に必要な基準人口(3万人)を越す見通しが立った。
 三谷町では、織物工業関係者を中心に賛成の声が強かったが、「蒲郡市」の呼称、新市長舎の設置位置をめぐって異論が出、昭和29年2月21日、三谷町議会は、合併条件が合わないことを理由に不参加を議決した。

 愛知県町村合併審議会長は、「町村合併促進法」の最初のモデルケースであることを背景に三谷町に対して「三谷・蒲郡両町は地理的経済的及び産業的にも同一形態を形成している町村であるから、将来の発展を考えて合併を再考するよう」奨励を行った。

 昭和29年3月7日、三谷町では合併の賛否を問う住民投票が行われた。結果は賛成2,295票、反対2,075票であった。こうして三谷町も合併に踏み切った。4月1日、蒲郡町、三谷町、塩津村の二町一村が合併、市名を「蒲郡市」とし、人口48,522人、戸数8,272戸、面積35.51平方キロ、県下一5番目の市制施行都市が生まれた。

 その後、30年には大塚が分村合併、37年形原合併、38年西浦が合併、この時点で人口は81,046人となった。
 大塚においては、西宝地区には入っていないし、地形上からも星越峠で蒲郡・三谷とは分断されていて、御津町との結びつきが強い。しかし、産業面では織物・ミカン等の組合が蒲郡地区と強く結びついていた。話し合いの結果、赤根・大草は御津町へ、大塚・相楽は蒲郡市へと、分村合併することを決定した。

 形原町においては、二度目の住民投票によって合併を決定した。

 西浦町においては、豊かな財源としての石材収入があったため、予算に困らず合併には積極的ではなかった。採石場の原山・長瀬・田土山を西浦町財産区とする等の合併条件によりなされた。



【方言】
 蒲郡を含む三河地方には、昔から三河方言と呼ばれる言葉がある。その代表的なものは、「そうかん」とか、「なんだん」のように、他地域の人の印象からすれば、末尾に「ん」の多用に気づく方言のようである。また、昔から漁業を中心とした町であったため「漁師言葉」が使われ、全体的には乱暴な言い方が多い。

(方言)     (正語)
  あんねえ  お姉さん
  おし     君・あなた
  あかん    だめ
  せらっせ   しなさい
  いかまい   行こう
  そうずら   そうでしょう
  よだりい   つまらない
  ぐろ      傍
  わや     めちゃ
  あののん  あのね
  けっこい   きれい
  しりん    しなさい
  きんにょ   昨日
  らんごく   乱雑

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