◎この人だあれ <人物>

 【藤原俊成】       【滝信四郎
 【女歌舞伎役者 市川牡丹】 【横綱 玉の海

                     


【藤原俊成】
 藤原俊成は、平安時代に三河の国司として蒲郡の竹谷・蒲形地区を開発したといわれる。俊成が国司をつとめたのは、久安元年(1145年)12月から久安5年(1149年)四月まで、俊成が32才から36才までの間、藤原顕広と名のっていたころである。俊成は、三河湾に面して温暖な景勝地の当地を好み、当時クスの木等が群生していた荒地の開発等をおしすすめて蒲郡の礎を築いたといわれている。俊成が開発成就を願って琵琶湖竹生島から勧請したという俊成ゆかりの竹島は、現在蒲郡のシンボルとなっている。
 俊成は、歌人としても優れ、千載和歌集の撰者として知られており、鎌倉時代の代表的歌人、藤原定家の実父で、平安時代末期から鎌倉時代初期における業績は現在でも高く評価されている。




【滝信四郎】
 名古屋で古くから繊維問屋を営む滝家は、明治中ごろより東海道の景勝地蒲郡の府相海岸に別荘を持っていた。「こうした景勝地をこのままにしておいては惜しい。なんとかしなければ。」と考えた信四郎氏は、さっそく隣接地数千坪を買い入れて、大正元年常磐館を開業した。当時、竹島には橋がなく、お開帳のときだけ臨時に木橋が渡された。蒲郡保勝改善会(現蒲郡観光協会)の永久橋をかけたいとの思いを聞き、日頃から信仰心のあつい信四郎氏は橋の寄進を思い立ち、この旨を町当局に伝えた。昭和7年4月施工費3万5千円で竹島橋が出来上がった。また、近くの海岸に石炭舟の舟付き場があった。観光地にふさわしくないので、これを他へ移すことを町当局に申し出た。また、海岸12,200uを埋め立て町に寄付した。竹島橋ができると、蒲郡海岸は急に観光客が多くなった。そこで、気軽に休憩したり、食事することの出来る共楽館を昭和8年に完成した。その他、三谷町子安弘法大師像建立、五井山ケーブル敷設計画等、信四郎氏は、多額の私財を寄付して後半生蒲郡町の発展のためにつくした。


【女歌舞伎役者 市川牡丹】
 江戸時代から昭和初期にかけての芝居と言えば歌舞伎のことである。民衆の唯一の楽しみとして盆・正月、祭にと娯楽の中心を成し、喜ばれていた。その歌舞伎界にあって、大変な人気を得ていたのが、市川牡丹である。
「目が大きく、体格も頑丈だったから男役、お目見得だまりの百日かずらで辻堂から現れ、最後に幕外の花道で見得を切り、六方を踏んで引っ込む姿はどう見ても女と思われぬから、女団十郎の異名があった。」と好事家に言わしめた程であった。



【横綱 玉の海】
 蒲郡出身の優れた横綱玉の海。双葉山の再来とさえ評価されたが、その生涯は余りにも短く「横綱の現役死」として惜しまれつつ27才の若さでこの世を去った。
 横綱在位10場所の成績は、勝率8割6分7厘(優勝6回)で双葉山の8割8分2厘に次ぐもので評価は高い。これは何よりも玉の海が研究熱心だった上に、胴長・広い肩幅という力士にピッタリの体型の持ち味をいかし、相手に上手を与えない相撲の基本を押し通し、力を発揮した結果でもある。
 活躍が期待されたが、不幸にも病魔に襲われ急死を遂げる。人一倍強い責任感が命取りとなったのである。
 玉の海は、大関へ上がるまでに3回、大関時代に3回、横綱へのチャンスを逃がし、計6回、苦渋を嘗め、その度にくさることなく「根性」で、それをはねのけ、盛り返す力を持っていた。前記の座右銘は、玉の海自身の言葉である。

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